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2025年12月6日土曜日

恒例の紅葉シーズン姉弟会

 11月20日 4日前の我が家にとっての大きな行事のことは既に記述している。毎年音楽好きの人達とBBQ&HCを我が家の庭で開催するのが2018年から恒例となっている事。「折角紅葉で美しい庭や森を我々二人だけで楽しむのは勿体ない」というのが一年間てしおにかけて庭をケアしている夫の気持ちが発端である。その続きで、夫の姉弟会もこの紅葉の時期に開催。庭にまだテーブルや椅子を残しておき、冷蔵庫にまだ残っている物に少し手を加える程度の準備なので大事ではない。姉達もお弁当を買ってきてみんな椅子にかけてお喋りするのが楽しみの会となっている。女性が長生きするのもお喋りが秘訣なのかも。

しかし、時は経ち、昨年姉6人の内2番目が93歳で10月に逝去。一番上の姉は96歳となり、車椅子生活で週日はお泊り施設に行っていて今回は欠席。そして4番目の姉は11月から介護ホームに入所。結局今回は実家を守る3番目の姉(90歳)、5番目の姉夫婦(88~90)、6番目の姉夫婦(87~85)そして、一番上の姉の長男(70+)と我々が集った。皆長寿である。こうして年に春と秋に我が家の庭で集うことを楽しみにしてくれている。加齢と共に状況も変わり、考える事、思う事も変化していくのが良くわかる。自分もその中にいる状況であることを最近しみじみ感じ始めている。大きな声で話し、笑っていけるのは後何年ぐらいだろう?Oh,no, don't think that way. Let's keep doing whatever we can and enjoy our way of living.

2025年11月18日火曜日

恒例の紅葉タイムBBQとホームコンサート

 11月16日(日)

昨年は11月10日にこのパーティーをやった所、紅葉はいまいち。昨年の反省から今年は一週間遅くして16日に早々と決めていた。我が家の木々の紅葉の素晴らしさを我々だけで愛でるのは勿体ないというのがそもそもの発端。一年がかりで、夫は常にこの日をイメージして庭づくりに心を入れていた。9月頃から構想を練り、夫が少しでも内容を濃いものにしたくてお誘いする方々を決め音楽が好きで、話が出来て社交性のある友人知人に声掛けをスタート。我が清風塾合唱隊メンバーにも声をかける。

長女と次女のコンビはありがたく、歌を歌うことの大好きな次女が大勢の仲間から一人、パーカッションをする女性を連れて来ることに。そして、いつも妹を支える長女がキーボードをやってくれる。娘達のおかげで、このBBQコンサートは成立している。二人とも音楽が好きで、レッスンを取りながら、実際にライブとかもやり始めている。彼女達はそれぞれ長男、次男(次女)の大学と中学受験が終わったタイミングもあって、今年は前日から厨房の方も本当に良く手伝ってくれた。

秋晴れの最高の天気に恵まれ(昨年は雨模様でビニールシートでテントを張って準備が大変であった)しかも暖かく、紅葉もピークのベストタイミングとなり、実にありがたかった。    

埼玉から清風塾会員と彼女の夫やら友人8人も参加。東京から私の親友が2人来てくれた。啓子さんとひろ子さん。更に、夫が顧問をやっているMIS(Multilateral Interaction with Students関係の学生さん達に声をかけ、実際12人の学生達(東大と早稲田と横浜国大卒業生)が参加。宇都宮からあの87歳の教育者佐藤先生が夫人と中国人一人を連れて参加して下さった。佐藤先生は最後の夢とばかりに新しく外国人(中国人)を受け入れて言葉と文化が学べる学校(何とboarding school)を宇都宮に設立されたばかり。清風塾合唱隊メンバーも入り、総勢40数名。

嬉しい悲鳴をあげながら、メニューをチェックしながら買い出しを繰り返し、前日から準備。やると決めたら、迷わず進むだけ。退官してから日光に拠点を置き国際交流的なボランティア活動を続けて20年が経つ。84歳になってもまだ現役時代と同じようなことをやる我々夫婦に秘かに乾杯したい。

昨年同様、BBQで食事を楽しみ、その後コンサートが始まる。どんどん歌いだす。学生達は通学の電車の中でのスマホから音楽を聴いているらしい。みんな、良く歌える。キーボードの伴奏で歌ったり、パーカッションでリズムを取ったり、カラオケボックスを利用する者もいる。ベトナム料理講習でお世話になった帆亜さんも引っ張り出して、清風塾合唱隊が練習したベトナムのフォークソング「美しい竹」を歌うことも出来た。

暗くなり始めた4時半頃、とりあえず中締めをやる。その後、東京組は室内で帰りの電車の時間までゆっくりお喋り。12人の学生さん達には今度は夫が丹精込めて用意しいた蕎麦を食べて貰いながらこれからの事、やるべきこと、などいろいろ話が盛り上がり、7時頃まで賑やかに居てくれた。東京から2台のレンタカーでやってきたのである。

来年は2月にノルウェー大使を招いてのクロスカントリー大会を開催するイベントを周知。まだまだ忙しい時間が続いて行く。お疲れ様~でした!



2025年11月5日水曜日

「ベトナム家庭料理を囲んで交流会」のイベント決行

 11月2日(日)

予てから準備してきた清風塾主催の「ベトナム家庭料理を囲んで交流会」を実施。料理講習だけに終えるのではなく、交流会をむしろ主軸にしたイベント。

1か月前に講師として受けて下さった手塚帆亜さんとタイ、ベトナム料理店ゾウの家で初めてお会いした。この企画を共に企画し運営してくれる二人の理事さんと共に、タイ、ベトナム料理に舌鼓を打ちながら、和やかで実のあるランチがご一緒出来た。帆亜さんの熱意のある、優しいお人柄に触れて、このプログラムはうまく行くと信じた。県から紹介された県ベトナム人協会の副会長をされていてまだ37歳という若さ。宇都宮在住20年。大変活発に動かれている様子がすぐ理解出来た。プログラムの準備段階でもきめ細かく段取り、準備に関して意思疎通が出来た事は大変ありがたかった。ただ、直前になって内容が膨れ上がり、子どもたちによるダンスパフォーマンスは数日前に決まった。交流には理想の形になっていったのでありがたかったが、準備する方は大慌て。書類の修正が当日早朝にまたがり、一緒に作業して下さった理事もしかり。ともあれ、当日の8時半には現場集合ということで準備したものは全部持参。

プログラムの立て看板まで用意して下さった流美子さん。前回のノルウェー大使をお招きしての講演会の時を改めて思い出す。きめ細やかに、新しいアイディアを活かして準備して下さる姿には感謝するばかり。

受付の方でもお願いしたメンバーの方々のご協力に助けられた。ベトナムサイドの参加者が流動的になってもフォローして下さり、結果的に日本人20人、ベトナム人20人という実に理想的割合での交流会になった。

講師手塚帆亜さんとアシスタントの鈴木リューさん、キヨミーさんの誠実で明るく、何よりも熱意と愛が溢れる、まさに家庭的な温かい雰囲気があり、料理講習に慣れているのか、手順が良く、洗い物はどんどんやっていく。交流会では子供たちのダンスと清風塾の合唱隊の披露が出来た。料理は3種類。①フォー②上げ春巻き③デザートのチェー。全て美味しくて、ベトナム料理は野菜をふんだんに使い、ヘルシーであるだけでなく、優しい味がするというのが今回の私の感想。全体の流れに気を配った関係で、一つの一つの作業をしっかり見続けることは出来なかったが、届いた多くの写真が大いに参考になる。いつか挑戦してみたいと思う。8時半~14時半までの6時間のプログラムであった。 お疲れ様でした。帆亜さんのベトナム語挨拶言葉1分コーナーがあったことも彼女のサービス精神が滲み出たものであった。   因みに、今日は→「シン チャオ」・ありがとう→「カン オン」・さよなら→「タン ビエ」

途中で、地元新聞の取材が入り、記者さんも中に入って、一緒に試食まで付き合って経験していただいたことは大変ありがたかった。記事が楽しみである。









10月11日(土)酒蔵コンサート

 日光清風塾合唱隊の出前コンサートに初挑戦

去る10月11日、合唱隊の活動を広げようと、初めてチラシを作成してPR活動。何事もPRする作業は気を遣う。自分で動いてしまえば簡単だが、組織での活動は組織が結束しなくては意味ない。そこが難しいところ。役割分担を決めたりスケジュールを作成したりはミーティングが欠かせない。場所を提供して下さる酒蔵、今回は今市の老舗渡邊酒蔵との相談、内容決定へ。

今回はチラシを試作してまず合唱隊指導者の真由美先生に相談。早速提案とか削除する部分とかのコメントをいただき、その上で編集し直し。出来上がったらコピーを作成して、メンバーに宣伝協力をお願いする。

宣伝はただ適当な場所に貼っただけでは効果がない。口コミに限る。これはこれまでのいろいろなイベント開催の時に感じたことだが、これがなかなかスムースに行かないもの。平素からの付き合いがいかに功を奏するかがよくわかる。アーチストさん達のご苦労は大変な物だと思う。

今回の酒蔵コンサートから、手配の仕方がまずかったのか、メンバーが一人去った。いろいろ余計な苦労が出て来るもの。経験から学ぶしかないとつくづく思う。

さて、コンサート自体は初めての経験であったこと、天気が悪かったこと、連休にぶつかった事などもあってか、参加者は20人ぐらい。観客数が合唱隊メンバーの数(10人)より多かったことは何よりとメンバー達は笑って言っていた。思わずホット皆大笑い。

真由美先生のいつものトークが会場を明るく、笑顔にして下さることが最大の武器かも。

ともあれ、メンバーの各自のナレーションも入れての「東京物語」が今回の出し物。昭和百年の今年、戦後80年の今年ということで、戦後の壊滅状態の東京を舞台に、人々が口ずさんだ歌のシリーズは年配の観客層には良い選曲だったと思う。雨の中、お疲れさまでした!

2025年10月17日金曜日

時の流れに思う事

 2025年10月14日(火)

スポーツの日の翌日、2日後のソロプチミストチャリティーゴルフ大会に備えて、好子さん、夫の3人でRCCで練習をしたのはいいものの、不調に終わる。考えて打つうちはうまく行かない。何も考えないで、今まで通りに、力を入れないで楽にやるべし。

5時間かけてラウンドした後、羽黒山の近くに住む4番目の義理姉、Yお姉さんの所に夫のイニシャチブで行った。事前に電話をするもノーアンサーであったが、行ってみることに。9月末に2番目の義姉M姉さんの一周忌の法事で会ってはいた。一週間前に日光地区在住の義姉達、H,I,U姉さん3人と我々で小代の1番目の義姉Chiyono姉さんの所に、陣中見舞いというか、年齢が年齢なので(96歳)みんなで在宅の時に(周4日は介護施設にお泊り)会って来ようということで出かけた。その時、このY姉さんには家が遠いこともあって声をかけなかったうしろめたさもあった。中里の家に着いてみると、長女と彼女の2人の子どもが丁度訪れていた。奇遇で会えて良かったと思ったものの、Y姉さんの変わりように驚いてしまった。つまり、年齢相応に(92歳)支障が出てきているという説明を長女から聞いてまさかのまさかの思いであった。既にいろいろ手配を進めていて、11月には長女の決断で施設に入所するという。余りに急な話であり、本人も納得しているのかいないのか、つまり、こういう時にありがちなうつろな眼に時の流れの残酷さをつくづく思い知った。てきぱきと動き回り、編み物が得意だったあのお姉さん、私達が初めての海外勤務をしたカナダから帰国して約1か月は、当時姉達はまだ東京に在住していた時で、夫が居候させていただいた。私は大阪の実家に初めての子供の出産で里帰りしていた時である。

その後もいろいろ助けて貰ったものである。あの頃から、既に半世紀以上経っている。無理もない。皆年を重ね、それぞれの人生を歩んできて今がある。生きて行く上で順次問題はかかえることになるのは当たり前とはいえ、目の前の現実となると、やはり、切なさがこみ上げてくる。順次これから同じ運命が待っていると思うべきだろうが、まだまだという避けたい叫びも聞こえてくる。 自然に逆らわず、鷹揚に。残された人生を如何に活用すべきかを考えるべし。

膝の故障が7,80パーセント回復した矢先にいろいろ考えてしまったが、周りを見れば、いろいろな生き様があることがわかる。消極的になったり、積極的に快活になったりの繰り返しであるが、昨日は高揚した日となった。


10月16日 日本オープンゴルフ大会が我が家の目の前のNCCで開幕。生憎の雨の日となったが、同じ日に、恒例の日光ソロプチミスト主催のチャリティーゴルフ大会が鬼怒川CCで開催され、今回は夫婦で参加。同じグループに悦子さん、好子さんを誘って。雨の中のプレイとなったが、86人もの参加者を得て、盛大に開催された。グロスのスコアは良くなかったが、新ペリエ方式でのコンペのおかげで、何故か、結果は好成績に。86人中10位。しかもレディースで優勝という実力から離れた結果を貰って、嘘でも嬉しい❣ 思いに。夫も平素のスコアより良い結果を得て31位でまんざらでもない。花束やら、賞品やら、抱えきれないグッズをいただいて喜び勇んで帰宅。ところが有頂天になりすぎて、夫はカードを返却しないで帰宅。つまり、グリーンフィーを未支払いのままだったことに気づいて、Uターンしてゴルフ場へ。とんだ顛末だった。帰宅しなおして、夫はそのまま東京へ。 その後、優美子夫人からのラインメールで手術は成功されて土曜日には退院される由のグッドニューズを得て、本当に喜びが重なった、ハッピーな一日となった。人生、山あり谷あり、苦あれば楽あり、この繰り返しの船に乗って楽しく航海し続ける事。

2025年10月2日木曜日

9月29日(月)復帰の兆し

 70日前の7月20日(日)に足を踏み外して右膝靭帯を損傷し、難儀をしたことは記録している。日常のルーティンが出来なくなり、明日は何を、今日は何をと計画が立てられなくなり、ただ、脚を引きずりながら移動するのがやっとの生活が続いた。ソファーに寄りかかって、せいぜいテレビを観るのが殆どの毎日が続いた。頭も脚の筋肉も退化していくうのが懸念される中、極力意識して痛む脚に鞭を打ち、病院通いから接骨院に梶を変えて10回ぐらい通い、電気治療とマッサージを続けた。徐々に歩けるようになった。幸い、金曜日の英会話クラスは休むことなく続けられた。ただ、私の生活の原動力となっていたゴルフが出来なかったことが非常につらかった。コーラス活動も休まず続けた。時間が解決するだろうと信じて滅入る気持ちと何とか闘って我慢してきた。

そんな中、9月8日から20日までの2週間、夫は今年2度目の中国へ。新しく開校される上海の日本語専門高校のイベントに加えて、日中音楽交流会を仕掛け、6月に私も中国へ行った時に再会した藩幽燕女子が中心となって実現した。この時、今回が二度目となる大野紘平君(この春26歳になったばかりながら、もう音楽エンターテイナーとして、大変な勢いで活躍する大物に成長)を同行しての交流会。幽燕さんとは6年前に宇都宮で会っていることもあり、大変和気藹々と活発な音楽会になったよう。

その間、私はひたすらリハビリを心掛け、ついに、夫の留守中に庭の草刈りを全部やってのけた。殆ど一週間かけての作業だった。夫を驚かせたい一心もあったが、帰った翌日には我々のコーラス隊の練習があったこともあり、あの駐車場になっている空き地を何とでもきれに刈っておかなくてはという気持ちがあったからである。

そんなわけで、時間が経過し、怪我をしてから70日目となった9月29日(月)、ついに夫とゴルフに出かけた。(その前に、実は25日、夫が東京に行っている間に1人で思い切ってハーフを回ってみた。宇都宮ロイヤルCCで。そして大丈夫だと確信)たまたま29日は酷暑に戻った日となり、暑さがこたえた。前半は50で回ったものの、後半はあるホールで大たたきをしたことから、気持ち的にも疲れと暑さで地獄の境地に。辛かった。しかし、後半は55叩きながらも、やりぬいただけでも喜ぶべき。10月16日のソロプチミストの例年のコンペに備えて、とりあえず、プレイできる自信が得られたのは収穫であった。

2025年9月27日土曜日

変体仮名文字

 9月22日 越中島時代(1979~1983)の親友からの贈り物

ラインに乗ってメール交換している越中島時代の仲間から文化の香り高い一筆が届いた。彼女は書家であり、以前、私の節目の年に、私の母が娘の私に寄せて書いた俳句を変体仮名文字にして贈ってくれたことがある。今回は、お互いに加齢により、身体のあちこちに故障が出始めたのをきっかけに、このような詩を選んで変体仮名文字にして送ってくれたのである。書の美しさと斉藤史女子の詩の内容の深さに感動し、姿勢を正す思いにさせられた。

老いてなお

艶と呼ぶべき

ものありや

花は始めも

終わりもよろし
         斉藤 史 句


2カ月前の7月20日の朝、車から買い込んだ重い荷物を運ぶ時、玄関先で足を踏み外して右膝を故障した経緯は既にこのブログに書いている。骨折ではなく靭帯を損傷したようでしばらく難儀をした。あれから2カ月が経過して、快方に向かい始めたタイミングでこの句が送られてきたのである。心身共にいかに励まされたことか。