【27年ぶりの上海、そして遥かなる西域へ:中国横断記】
6月19日(木)<いよいよ久しぶりの中国へ>
江蘇省南通市の大学での講義の為に夫は間先に出かけていた。その予定を終えた夫が上海に移動した日の19日、私も上海に向けて出発した。南京市には2016年に訪れ、前期と後期にわたり南京伝媒大学で日本語指導をしました。しかし、上海を訪れるのは、ブルネイ時代の一時帰国の折りに寄って以来なので27年ぶりです。当時でさえ、上海の発展振りには驚いた記憶があるので、その後の発展振りには目覚ましいものがあるに違いない。特に上海博物館の数々の美術品の展示風景は美しく整ったものであった。建物そのものも近代的でトイレの印象は意外な程であった。
前日に市川に住む次女の所に行き、翌日13時発の中国東方航空に乗るべくゆっくり出かけた。朝8時過ぎは通勤客で電車は混んでいたが、猛暑の中の電車は涼しくて快適。市川から成田空港までは京成線特急で1時間もかからない。大変便利である。3時間前にはチェックインを終え、悠々と搭乗時間が来るのを待ちながら、あちらこちらへ旅のお知らせをラインチャットで送ることが出来た。
成田から上海までは3時間しかかからない。日本との時差は1時間。中国国内は一律同じ時間というから東と西の時間帯の風景は相当に異なる。東部が朝なら、西部はまだ夜中。アメリカ大陸は東部と西部では4時間の時差が設けられているが、中国国内は時差が無いというのはいかにも中国らしい。
機内からの眺めを期待して窓によりかかり、下界を見つめていたが、飛行のルートが定かではなかったせいもあり、富士山も阿蘇山も見えませんでした。驚いたのは、各ホールが緑のゾウリムシのように並んだゴルフ場が、日本列島を相当数覆っていたことです。日本は今やアメリカに次いでゴルフ王国となっていると頷けます。
さて、飛行機は快適に飛行し、上海に到着。荷物をピックアップするまでは結構時間がかかったが全て無事に通過して出ると、王君が会社の女性スタッフを連れて迎えてくれた。ほっと一息つきました。彼とは3年振りの再会。最初は中国人学生グループの一員として日本を訪れ、日光でのホームステイでは我が家に泊まった。それ以後、何回も彼を我が家に迎えている。夫との繋がりをしっかり保ち続け、今回は彼が我々を招いてくれたのである。
ホテルに着くと南通市から車で3時間かけて夫が既に到着し、しかもその午後、上海の高校で2時間強、スピーチをしたところだという。今や中国語でスピーチをやる夫に、改めて畏敬の念を持つ。継続は力なり。とても真似できない。信念で中国語を勉強し続けたことに頭が下がる。相当にエネルギーを使う。1週間振りで見る夫はいささか疲れた様子であったが、達成感も見られた。上海に移動する前、南通市の学校で4回も講義をしている。疲れる筈である。明日は私もスピーチをすることになっているが、テーマが決まっていない。今晩せめてテーマを決めてレジメを作成することに。
さあー、ここからが大変。美味しい中国料理を毎日ご馳走になることになるからだ。今晩は早速、日本語教育に集中して9月からスタートさせる上海大同申洋学校国際部の校長先生がホストの晩餐会が開かれた。彼はまだ37歳という若さ(話し方も容姿も役所広司にそっくり!)。その下で重責を担う先生方(孔先生、シャ先生、サイさん、王君と彼の会社のJessy、)との、日本語と中国語での賑やかなお喋りと飲食が約2時間続きました。とにかく、会話が途絶えること無く、盛り上がっては乾杯の繰り返しである。彼等は酒豪揃い。白酒をぐいっと飲みほしては乾杯とくる。でも酔っ払う様子は無い。まじめな仕事の話をする。別世界の光景である。今上海では日本へ行って留学をし、日本で仕事を希望する若者が増えているという。それに呼応して、上海大同申洋学校(高校)が新しく日本語だけを教える国際部を創設することになったという。9月スタートを目指して目下生徒を募集中。実際に翌日、そのキャンパスを見学することになる。
6月20日(金)<9年ぶりに教壇に立つなんて!>
昨晩は疲れて早く就寝したせいで、早朝に目覚める。起き上がってスピーチのテーマを決め、内容のレジメ作成に入る。テーマはこれまで歩んできた我が人生を話すことにした。世界地図を見て貰いながら、引っ越しに引っ越しを重ねて、フォーマルな生活と、子育て、子供の教育、家族の健康管理といったプライベイトな生活の二刀流でやってきた長い人生を4~50分で話すのである。詳細は省くが、要は、80を超えた今も信念を持ち続けて挑戦する夫を支え続けていること。いただいた命を何かの役に立たせるために、これからも頑張って行きたいということなどを伝えました。若い生徒さん達も頑張って欲しいことを願いながら、スピーチを終えました。今まで他人のスピーチ等を日本語と英語に通訳したことはあるが自分の話を通訳して貰ったことは無い。通訳の先生との連携スピーチは初めての経験であったこともあり、呼吸を合わせるのは意外に難しい。ゆっくりしゃべり、長さも気になるので力が入り、汗がびっしょり出た。
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👆約百名の生徒を前に熱弁☛ |

昼食は学食を別室でいただいたが、馬が食べるほどのその量に、食欲を失ってしまうほどでした。しかし、先生方のおもてなし振りには圧倒される。果物をきれいに机の上に並べてくれたり、飲物も沢山用意してくれる。余りの歓待で恐縮するばかり。
午後は9月に開校となる国際部のキャンパスを見学。モダンな設備が整えられ、クラスに並べられた椅子のカラフルなこと! 赤、青、緑、黄色といった色の違う椅子が並ぶ。生徒は喜ぶことだろう。日本人の先生方も6人すでに決まっている。早稲田、慶応出身の先生方の写真、プロフィールが展示されていた。夫はこの国際部で顧問的な名誉職を与えられるようです。ということはこれからも夫は上海を訪れることになりそうです。
建物は校舎に加え寮もある。週日は寮生活をやり、週末には家に帰れる。息子が高校生の時に通ったニューヨーク郊外のハックレイスクールに似ている。異なるのは、ここには畑のスペースもあり、生徒が野菜作りも出来る。勉強の合間に、気分転換が出来るように物理的にも効用のあるこのアイディアを考えたようだ。更に、バスケ、テニスコートも造られていた。 👇キャンパスに隣接するコーヒー喫茶店
このキャンパスに隣接するコーヒーガーデンは、とても魅力的でした。以前はガラス工場だった場所が、外側のレンガ造りを活かしつつ、内装は非常にモダンに改装されています。奥深く、照明は抑えられていて、夏でもひんやり心地よい空間です。学校への来客を案内する場所としても重宝されるでしょう。洒落た雰囲気が漂っていました。
今晩の食事は、学校とは関係のない、長い付き合いの主人の友人の紹介で全く初めて会う二人連れとの食事会であった。大学を出て1,2年にしかならない有能そうなビジネスマンと先輩らしき日本語が堪能な女性(閻エンさん)。彼女は日本企業との通訳もやっているようで、日本人のこと、日本文化にも通じている様子。なかなか頭も良さそうで明朗な方であった。ビジネスで日本には行ったことがあるが日本語は上海の学校で勉強した由。上海には、今回新設される大同申洋学校国際部のような日本語のみを勉強する学校が55もあるそうで、日本語は人気だそう。日本語を3年勉強して日本に留学をし、日本で就職をし、出来れば日本に住み続けたいという道筋である。彼女は日本に留学はしていないが、日本語は殆ど完璧である。ともかく、中国の若者と長年交流を続けている河合先生と顔見知りになりたいという希望で今回のゲット・トゥー・ノウ ミーティングが設定されたよう。
ここまで、豪華なご馳走を前にして、食事摂取量の管理はかなり出来ていると感じるものの、運動不足のため、お腹周りが気になり始める。かといって、一人で早朝散歩する勇気はありません。迷子になったらお手上げです。私の携帯はSIMカードを交換していないため使用できず、せいぜい写真撮影のみ可能です。最近の足の重さに不快感があり、早くベッドに入るとそのまま早く寝ついてしまいます。おかげで朝は早く目覚め、たっぷり時間を使ってブログを更新することに専念しました。
6月21日(土)<上海の古いマーケットと現代の新しい街並み>
今日と明日は特に昼のアポは無く、市内を観光することに。
今日は、上海の古い街並みに行くことに。ありがたいことに移動は全部車で出来る。片道40分かかる距離にその地区はありました。上海は広い。東京の倍ほどの広さがありそうです。浅草の仲見世に似ていますが、狭い石畳の道路を挟んで、左右に珍しい品々が並んでいます。仲見世と違うのは、売り子たちの声の迫力です。大きな声で呼び込んでいるのはほとんどが元気な女性で、その内容はおおよそ想像がつきます。買わなかったら怒られそうなほどの迫力に圧倒されました。
それにしても、珍しいものがあるものです。豚肉店では、豚のあらゆる部位が、テカテカに料理され、一見木彫りのように見えます。豚の鼻や耳もあり、食べてみようとは思いませんでしたが、豚は殺されても、こうして、別の世界で再び生かされているように感じました。照り焼きのような鳥、アヒルなどの他に、生きた大きな亀もいる。
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👆漢方野菜や果物のドライフード |

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👆汚れたスマホを磨く店で夫も客人 |
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👆昔の風景が漂う一角 |
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👆市場の全風景 |
一番目につくのは何かわからない漢方野菜や果物から作ったドライフード。味みしてみると、結構おいしい。昔風に、大きな瓶に入れて、計量器での量り売りが多い。しっかり梱包され、パックにしたものより、中身がしっかり見えて、好きな量を求めることが出来るのは重宝である。私は無難な梅をドライに加工したものを100グラム買ってみた。1キロ40元というから100グラム80円は安い。夫は珍しい何か不明なものをゲット。野菜果物は豊富だが、採りたてでも暑さの中でしなびている。きゅうり、ナス、トマトの他に、ドラゴンフルーツ、ドリアン、マングスティン、とうもろこし、等々。関心度の高い夫はそれぞれの売り場の前に止まる。普段なら、前をさっさと行く私だが、ここでははぐれたらピンチなるのでぞろ歩きに
約2時間ゆっくり歩いた後、昼食を取ろうということで数カ所の食堂を覗いてみた。食堂を選ぶのにも時間がかかる。食べたい焼きそばがどの店にも無い。全部スープがはいっているラーメン風の汁物が多い。汁物はお腹が膨れるのでなるべく食べたくない。結局ラーメン風だがスープを飲まなければいいことにして二人で3品注文したら800円ぐらいでした。こういう食堂では食事代は安いですね。
そしてスタンバイしてくれている車に無事戻ることが出来ました。帰りもホテルまで40分。上海の街並みは木々が小さくて若い。上海は揚子江の河口で河による盛土に開けたいわば天然の埋め立て地である。それだけ揚子江がいかに雄大な川であるかがわかる。高層ビルもあるが、このあたりの高層ビルは殆どがアパート群である。そういえば、我々の止まっているホテルは30階ぐらいであるが、24階からの眺めではこのホテルが一番高く、眺めを邪魔する物は無い。上海で止まったホテルは中国版東横インと言えそう。効率的で清潔でコンパクトなホテルでした。ただ広さは中国のホテルが大分広い。Wi-Fiも完備しているのでネットが使える。ランドリールームも完備していて自分で洗濯、アイロンもできる。横にはジムが隣接していて待ち時間に利用できるようになっていました。
6月22日(日)<上海版銀座通りと外灘見物>
昨晩もそうであったが今日も朝から雷が花火の破裂音のように鳴り響く。何だか、戦場を想像させるような爆発音で思わず緊張してしまう。何の音かと後で確かめたら雷だという。ビル群に反響するからなのか、とにかく日光の雷音とは全く違うので驚きました。上海も今梅雨の時期にあって雨も止んだかと思うと大降りになったり不安定な天気です。そんな中、運転手はきちんと時間を守って待機していてくれた。今日は東京の銀座にあたる上海のセレブな街並みを散策して外灘に向かいます。
2時間のフリータイムを貰ってまず、上海で一番大きいと言われる本屋に向かう。上海に来た時は、必ず夫はここを訪れるという。最新の王陽明の実存主義的思想である精神と行動の合体論の本を見つける。王陽明の思想は江戸期の武士道に大きな影響を与えた哲学。あと2冊はノーベル賞を受賞した作家の本。店内には、ところどころに喫茶店があり、スターバックスもある。時間が無くなってコーヒーも我慢して外灘に向かう。その本屋から歩きのペースを考えると15分と予想されるところは30分かかるだろう。
上海の銀座通り(中山東一路)は高級感を漂わせるブランドの店が広い道の両側に並んでいる。大丸上海店が一際目立ち、平和ホテルという上海のトップホテルも存在感を放っていました。バーバリーとか、H&Mの旗が閃く中にMLBというのもありました。大谷選手のバットを持つシルエットがあって入ってみたかったが、時間が無くて断念。途中でゆっくり昼食を取る時間も無いと予想されて、そのメインストリートの売店でパン菓子を買い、食べながら歩いた。雨が降ったり止んだりで雨具が手放せない。観光客と言えば、インド人観光客が目立ちました。中には団体さんも。日本人、欧米人は殆ど見かけませんでした。
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中山東一路(上海版銀座通り)の向こうに電波塔が見える 外灘(ワイタン)側からの眺め |
案の定あちこち目線を動かして写真を撮ったりするのでこの銀座通りを歩いて外灘に辿り着くのに1時間ぐらいはかかったかもしれない。外灘は観光客でかなり賑わっていたが、夫に言わせると、以前の賑いは無いと言う。熱気が感じられない。上海も経済事情が良くないらしい。久しぶりに訪れた私としては、上海の街並みは予想よりクリーンに思えた。繁華街にはゴミが見当たらない。ポイ捨ては無く、タバコの吸い殻も見当たらない。東京の銀座と比べて、混雑も無く、むしろ整然としている印象を持った。外灘からは、黄浦江を挟んで向かい側から前方に開発地域が広がる。外灘の歴史的建造物と浦東の電波塔を中心に、モダンな形のスカイクレーパーが競うように立ち並ぶ高層ビル群のコントラストは見事です。悪天候なのが残念でしたが、上海を象徴する街並みをしっかりと目に焼き付けました。 さて、最初の本屋の前でピックアップをお願いした運転手さんとの約束の時間が迫ってきて急いで帰路についた。何回も来ているから道順は簡単だと言っていた主人の足取りが不安げに。来た道をそのまま引き返さず、一寸違う道に入ったために、迷ってしまったのである。通りがかりの人に何度も訪ねながら、スマホのナビを見ながら、やっと何とか本屋まで戻れた時はやれやれでした。足がまだ本来の状態に戻っていない夫にとっては時間とにらめっこしながらの歩行は大変であっただろう。さほど遅れないで車に戻れたが、食べることを大事にする夫にとって昼食の時間が無かったことは厳しかったに違いない。車に戻ると即、今日の次の目的の上海妙技団会場へと急いで向かいました。「ERA―時空の旅」
ここは前に来た所とは異なっていたが、結果的に大変素晴らしいものでした。総勢20名ほどの演技者は、男性女性半々ぐらいで、皆が健康美に溢れていました。男性は逞しく、女性は筋肉質なのは間違いありませんが、非常にしなやかでエレガントでした。
赤い傘をモチーフに、男女が愛の形を表現しながら、舞い踊る。空中に上がったり、瞬時に下に降りたり、自由自在とはこのこと。アクロバチックな地上と空中の舞が繰り広げられる。そして、あの、球体の中でのオートバイの競演。一台が二台に、そして三台に膨れて球体の中で爆音と共に、走り回る。次々と台数が増えて、最終的には7台のオートバイの競演となった。危険を感じさせ、そのスリリングなパフォーマンスは大うけであった。
美しい女性が空中での大きなリングに身を乗せて、いろいろなポーズで観客を魅了する。白い鳩が一羽、どこからともなく彼女に合流し、共に演技をする。一羽が二羽に、更に、三羽、四羽と続き、最終的には10羽にはなっていたとおもう。良く、飼いならされ、演技を教え込んでいる。鳩の平和で優雅な雰囲気が、彼女と合体して、その雰囲気を更に盛り上げる。この演技が私を一番魅了しました。
ぴったり一時間の演技は内容が濃く、すべてコンピューターで制御されて時間の無駄がない。演技メニューの流れをコントロールするデジタルと、人間のアナログとの素晴らしい競演であった。終わって出てみると、インド人観光客が目立った。欧米人は数えるほど。多くは地元、上海人なのだろう。家族連れが多かった。
<藩 幽燕さんとの再会>
今晩は6年前に宇都宮で出会った音楽家、ソプラノ歌手の藩幽燕さんが我々を夕食に招いてくれることになっている。それもこの妙技団の演技が終わる3時に迎えに来て下さるという。私達は、大勢で賑わう会場の前の車道脇で待機。生憎の雨ではあったが、混雑する車道をどう運転してきたのかと驚くほどの運転スキルで近くに止まり、私達を手招いて下さった。ご主人が運転。挨拶は後回しで車に乗り込んで、目的のレストランへ走った。
上海を走る車は大きくて本当に高級車ばかり。前には大きなモニターがあり、ナビでも映像でも何でも映る。藩さんご夫妻の車はEVで自動運転の最新型。中国全般に対して今まで抱いてたイメージと今回は大いに異なる。クラクションの音が少ない。街なみにゴミが無い。人の喋りだけが際立っている。
話を戻そう。車中でのご挨拶と会話は止まらない。幽燕さんがこんなに力強く、逞しく、会話もどんどん進めて、非常にエネルギッシュであったことに驚かされました。6年前、縁があって彼女の宇都宮でのコンサートの後、翌日に時間の関係で当時宇都宮大学の留学生であった遅君が彼女を我が家に連れてきて朝食を共にした。そこで、その日の午後の大野紘平君の教会でのコンサートに咄嗟に出て貰うことになったのでした。経験豊富な彼女は咄嗟の申し出にもしなやかに、そのコンサートに飛び入りで参加して下さいました。
なつかしく、素晴らしい想い出です。その後夫が上海に出かけた折、紘平君にも上海に来て貰って数カ所の大学で演奏して貰いました。その流れで、今回の再会が実現したのでした。
幽燕さんは上海音楽院の教授。秀でた女性である。今回の晩餐会も、大学で音楽を教えている教授、関係者、音楽好きの友人など、10名ぐらいが集まっていた。そのレストランも音楽家が良く集まる場所らしく、この日も別の部屋では幽燕さんの知人、友人が集っていた。グランドピアノもある。音楽好きの人達は、話が弾み、すぐ盛り上がる。ご馳走を前に何回も立ち上がっては杯をかわす。歌はどんどん歌う。レストランの女性オーナーも加わって歌った。日本に留学して、日本とも関係のある仕事をしている人もいて、日本語も飛び交う。幽燕さんのご主人は宇都宮大学に留学し博士号まで取得して一級建築士だそう。驚きました。彼等はどちらも宇都宮大学に留学し、そこで知り合い結婚。彼女は宇都宮大学から芸大に進んだ人である。優秀なカップルである。凄い人達との縁に改めて感謝した日となりました。
幽燕さんと初めてお会いしたのはコロナの前のことで6年ぐらい前、宇都宮のイタヤホテルでのコンサートの時でした。やはり感動し、ご縁が出来て教会での大野紘平君のコンサートに飛び入り参加していただいたのでした。そこからのご縁で、新鋭ピアニストの大野紘平君が上海に行く機会を得、大切な友人として今回の再会が実現したのでした。
忌憚なく宴会は延々と続きました。しかし、レストランとホテルの距離が遠いこともあり、5時ぐらいから始まった会食も9時前に引き上げ、幽燕さんのご主人が難しい雨の中の高速を走り、1時間半ぐらいかけて私達をホテルまで届けて下さいました。多謝。
ここで筆記したいこと、それは藩幽燕さんの最近の偉業です。長年の研究成果を出されていた事です(2023年に出版)。つまり、日本の抒情歌曲集をひもとき、33曲を選曲して中国語に訳し、中国式の楽譜を作成し、今の技術を応用してQRコードを付記することにより、もはやCDではなく、スマホで瞬時に幽燕さんが日中両国語で歌われているのが聴けるのです。幽燕さんがごく最近、まさにライフワークとも言うべき音楽の本を出版されたことは聞いていましたが、実際にその本を拝見してびっくりしました。構成は今までにない全く初めてみる内容のもの。日中両方の楽譜と歌詞が編集され、それぞれの曲には幽燕さんの歌と映像が見られるDVDのQRコードが貼り付けてある。えっ!こんな事が出来るの!?大変な驚きでした。もう、CDは不要の時代。 👇 幽燕さんの最新の著書 「精選日本抒情歌曲集」


ここで、日中の心をつなぐ思い出の宝石箱『精選日本抒情歌曲集』と題して本の冒頭にこの本を監修された遠藤英湖さんの文章を引用したい。

【私が好きな事の一つに、宝石箱から色とりどりのアクセサリーを取り出しては眺めると言う遊びである。イヤリングやペンダントを一つ一つ確認しながら楽しみ、それぞれの思い出にしばし浸りながらまた宝石箱に戻すのである。幽燕さんの「精選日本抒情歌曲集」は、私にとってまさにこれと同じ。・・・・
私と幽燕さんの出会いは十数年前。東京・東銀座『パセラ』のライブで初めて会った幽燕さんは、黒い革ジャケットの衣装で熱唱していた。歌声に圧倒されながら一生懸命メモを取っていた新人記者の私。終演後、『こんなにノートを取ってくれた方は、初めて!今日はありがとう』とハグしてくれた。『何て可愛い方なんだろう』と思ったのが第一印象だった。・・・】
幽燕さんの時流に乗ったやり方での仕事振りには感動しました。編集して印刷に漕ぎつけるまでは本当にご苦労があったようですが、その使命感、挑戦意欲は大変なものです。こんなに凄い方だったんですね!改めて尊敬の念を抱きました。このご本を見るにあたって、QRコードをスマホで読み取れるようにと、WeChatにすぐに繋げて、内容を見られるようにして下さいました。Wi-Fiの強い場所であれば、中国のアプリも使用出来ることがわかりました。今のアーチストさんたちは、演奏だけでなく、ITの勉強もしておられるのです。
もう一つ驚いたことがあります。幽燕さんとのメールのやりとりから私自身も衝撃を受けました。ここにあるIPADというのはいろいろな楽器用にAIが楽譜を作り、演奏もしてくれるGarageBandというそれ専用のものです。目から鱗でした。写真を撮りそこなったことが悔やまれます。
【あれは本当に情熱あふれる感謝のお手紙でした。形式的な挨拶ではなく、一言一句が心の奥から出たものだと感じました。
「文化的な衝撃」という言葉は、もしかすると私たちのチームが無意識のうちに放っていたポジティブなエネルギーが、たまたま品のあるご夫妻に共鳴した結果なのかもしれません。
私のiPadをあれほど興味深く観察された方は、今までにほとんどいませんでした。好奇心と探究心が、なんと83歳の方にあれほど強く宿っているとは……「三味線の音色はある?」「尺八は?」と聞かれたときは、本当に驚きましたし、心から敬意を抱きました。
昨日、小蒋さんにも話したのですが、これまで私のGarageBand(库乐队)で再現した様々な楽器の音に驚く人は多くいましたが、その使い方や拡張について、真剣に深く話し合おうとした人はいませんでした。
また、私は河合先生に音楽に精通された娘さんが二人もいらっしゃることを存じ上げませんでした。 ご自宅のお庭でコンサートが開かれていると伺い、本当に素晴らしいご家庭だと感じました

】
QRコード一つで全てが可視化される。万博の時の入場券もQRコードでした。そう言えば、妙技団の入場も付添ってくれた学生がQRコードを見せていた。ペーパーレス、キャッシュレス、現金はどこに?時代はどんどん走っている。
6月23日(月)<荷物の整理>
上海にも梅雨があるのです。このところずっと雨模様。
今日は、夫が総領事館訪問をするので、その間私は王君のオフィスで待機することに。その前に、あと一泊のホテルは翌日の新疆への移動に備えて別のホテルに移るため、荷物のまとめの作業にとりかかりました。大きなスーツケース2個は上海に置いて行くので、新疆で必要な物だけを選別。毎日スーツケースを開けたり締めたりの生活なので何がどこに入っているかはインプットされている筈なのですが、これがそうはいかない。荷物の仕分けにこれほど時間がかかるとは思いませんでした。歳のせいでしょうか?
ホテルのチェックアウトを済ませ、一度大同申洋学校に行き、先生方と打ち合わせ。その前に昼食を学食で生徒たちに交じっていただいたが、その量たるや馬が食べるほどでした。ホテルで朝食をたっぷりいただいていたので、四分の一程度で止めてしまいましたが、勿体ないことでした。南京の大学で経験しているので、学食の様子は心得ていました。ただ生徒が高校生なので、ジャージーのユニホームを着ていてやはり幼い感じがしました。しかし、彼らは沢山食べる。成長盛りで現に体格は大人並み、というよりそれ以上かも知れません。
午後、夫は先生方と総領事館へ。私は王君のオフィスへ。オフィス街のモダンな綺麗なビルの一室がオフィスになっています。結果的に4~5時間待つ羽目になりましたが、Wi-Fiが力強くて、WeChatがうまく作動し、幽燕さんと南京にいる李群群先生にメールを打つことが出来ました。幽燕さんとは往復のやりとりが出来て大変嬉しく思いました。
6時頃夫がオフィスに合流。そこで又荷物の仕分けのやり直しをし、2個のスーツケースを預けることにして次のホテルへ向かいました。今度は全季飯店(中国版東横イン)ではなくHyattホテルでした。明日はウルムチへ飛ぶので飛行場への距離を考えてこのホテルが選択されたのでした。オフィスのスタッフが付添ってくれて、おまけに夕食も近場のレストランを見つけて飲茶類、野菜と肉の炒め煮、豚の足、内臓、揚げパンなどなど、全部美味しくいただきました。この時は、王君のオフィスと同じ階にある日本語の教室の生徒さんが2人一緒に世話をしてくれました。王君はこの教室も運営している由。あの若さでビジネスマンとして本当に良くやっていると感心するばかりでした。
6月24日(火)<いよいよ今日は西域への旅>
ジェッシーが同行。何もかもうまく進む。同じカシュガルでのファッションショーに仕事で行くというジェッシーの友人2人に飛行場で会いました。(あらかじめ予定されていたことかも)。私達の目的地はカシュガルですが、途中でウルムチに一泊するスケジュールが立ててありました。上海からウルムチまでは3276㎞。現地時間11時過ぎに離陸して3時半に到着。飛行は快適そのもの。もっぱらゴビ砂漠の上空を飛行。席が中央だったので、途中でアテンダントにお願いして前席窓側に居た女性の許可を得て上空からのゴビ砂漠の眺めを撮影した。雲の下に見える砂漠は広大そのもの。茶色の世界だけが広がっている。
思いがけなく、機内で「オッペンハイマー」を見ることが出来ました。この映画はタイミングを逸して宇都宮の映画館まで行った時は一日に1回しか放映されず見ることが出来ませんでした。砂漠の上を長時間飛ぶ間、原爆投下の苦しみを背負う科学者を見ていました。
ウルムチの飛行場は、清潔で広くモダンで大変驚きました。400万の人口を持つ新疆ウイグル自治区の中心地。飛行場での旅行客は中国人でも一寸顔や体形が違うように見えるのは気のせいかも知れません。上海とは空気が違う。外は青空があり、空気も乾燥している。
飛行場からホテルへはジェッシーがスマホで呼んだタクシーで。目の前にタクシーが待機しているわけではない。どこにいてもスマホで呼び出せばすぐやってくる。支払いも目の前では見えない。そのシステムの迅速さと効能さには驚いてしまう。
飛行場から1時間ぐらいでホテルに到着。上空から見たのとは異なり飛行場から市中までは道路がしっかり整備され、道の両サイドには赤い提灯が三つ縦に連なる飾りが続き、ここに来る人々を歓迎しているかのようでした。夫の解釈だと、新疆自治区の中国化への統制の印だと。なるほど、奥にあるものを見抜きながら慎重に見聞する必要があると納得した。
ここのホテルも立派。設備はどこも同じように整っている。日本のホテルは軽い感じがするが、こちらのホテルは重厚な感じがします。Wi-Fiも整っている。ハイテクの世界が西域にも広がっているのです。
1時間休憩して、夕食へ。これもジェッシーが運転手からの情報などで手際よく美味しい店を探して、効率よく連れて行ってくれました。大きなレストランで大勢の客が入っている。ここでも美味しい料理が楽しめました。羊肉が主。飲むヨーグルトは最高に美味しかった。チーズのような豆腐も。特大のブドウも美味しかったです。食事中に隣のコーナーでパーティーをやっているのか、歌や踊りが始まった。誰かの誕生祝いらしく、大賑わい。ウイグル族の人は美人、美男が多いらしい。顔立ちが白人のよう。話しかけると、少しシャイっぽい。良いタイミングで人々の楽しむ様子を見ることが出来ました。
👇 路上でメロンの切り売り 👇ウイグル族の衣装

👇Nang(ナン)と言うパン屋 👇 民族楽器が見事に並ぶ
食後は最大のパサールに行くことに。これも簡単に呼び寄せたタクシーで行けました。
ほどなく突然の賑やかさが広がり、まずメロンを山積したトラックを見つけ、ジェッシー
が値切って一切れ1元でゲットしました。続いて私たちも一切れづつ試食しましたがその美味しかったこと。自元の果物はさすがに甘くて本当に美味しかったです。
パサールには門があって、飛行場のように、荷物の検査、簡単な身体検査をする。門の内側は明るいイルミネーションが輝き、買い物客や冷やかし客を照らす。いろいろな品物を並べて買い物客を呼び込む人たちや明るい衣装を着た人が目立つ。ウイグル族の衣装はなかなか美しい。ナン(パン)を作っている所、売っている所、手工業の土産品からアクセサリー、立派な絨毯、洋服、楽器、骨とう品、アイスクリーム、スイーツ、全てが綺麗に、並べられ、買い物客を惹きつける。ここではバーゲンをするのが普通らしい。大した値段のするものではないものでもジェッシーがいくらか安く交渉してくれました。私が、インドネシアに在住していたころ、パサールで良くバーゲンしたものですが、あれはインドネシア語を楽しく学ぶやり方だったことを思い出しました。

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👆華麗なウイグル衣装 |
☚👇ダイナミックなモスク広場 上海とウルムチでは時差が4時間ぐらいあっても良さそうなのですが、中国国内には時差が無いのです。上海の夜7時頃はウルムチではまだ昼下がりの明るさです。夜はと言えば11時ぐらいから暗くなるとのこと。しかし、ウルムチの朝は7時ぐらいには薄明るくなってきたので、睡眠時間が少ないのではないかと思ってしまいます。ここで一つ秘めたお話になります。ジェッシーの友人との出会いです。中年の男性と若い女性の2人連れでした。同じホテルにチェックインして、食事も食後の散策もずっと一緒に行動を共にすることになりました。翌日のカシュガル(飛行場は巴楚)への飛行機も一緒でした。その友人の男性はカメラマン。王君の父親の友人とのこと。王君の父親もカメラマンで既にカシュガルに到着しているとのことでした。この男性が既にして写真をガンガン撮り始めていました。私をどういう基準でそうエステメイトするのか分かりませんでしたが、しきりに「美しい!」と言って私を取り続けたのです。どこまで本気で、あるいはなにか背後にあるのか、半分不安にもなりました。これから先、どうなるか、慎重に、でも、プライドを持って行くべきか、興味もありました。
6月25日(水)<カシュガルへ>
朝は6時半頃から白み始める。夜が短い。11時頃から暗くなるので、7時間ぐらいが闇の中でした。朝は思ったより早く明るくなるのですが、仕事の始まりは10時頃だという。学校も9時スタート。同じ国内でも時差がないままに行動を共にすることは難しいだろうと思う。お陽様と共に人間は他の動物同様に行動するのがやはり自然なのですから。
今日はウルムチからいよいよカシュガルへ。ローカルの727型飛行機は結構満席。2時間半の更なる空の旅も快適でした。上海からカシュガルへの直行便はありますが、長い旅になって疲れるだろうからという王君の配慮で、昨晩はウルムチに寄り、新疆自治区の中心都市を見るのも参考になるだろうという更なる配慮の上でのスケジュールでした。
この時も飛行機の搭乗を待つ間、あのカメラマンがしきりにシャッターを切る。夫も被写体になっていた。この時は、モデルの如くポーズを指導されて撮られた。私も懸念を捨てて言われるままにポーズを取る。自分の写真を見て驚きました。やはりプロカメラマンの腕前は違います。自分でも惚れ惚れするぐらいの被写体がそこに映し出されていたのです。これは満足意外に何もありません!不安な気持ちはどこかに行ってしまいました。
今日の飛行機は午後14:50に離陸。朝食後余裕を持って飛行場に行きました。(これも、簡単にスマホでタクシーを呼び、ホテルから快適に飛行場へ)、思いのほか清潔で整然とした飛行場内を見て回った。土産品の店も美しく並べられ、ブランド商品も他の飛行場同様に置いてある。何よりも意外であったのがトイレである。ウオッシュレットとまでは行かないが、操作の必要が無い水栓式でした。ゴミ箱も溢れることなくきれいにしてある。今や、グローバル化されてきていることを実感しました。
飛行機から見る地上は全部砂漠。広大なゴビ砂漠が最初から最後まで広がる。雲の間から見える砂漠は、黄土色。砂漠がこんなに続くとは。変化は無く続いていました。機内のモニターには飛行機がどのあたりを飛行しているかが分かる映像が流される。高度、速度、距離も出てくる。大変分かり易く、納得しながらの旅でした。約2時間半後にカシュガル市から車で2時間ぐらいの所にある巴楚(パチュ)飛行場に到着。ファッションショーはこの地で開始されるのです。
ここでは思いがけず、王君の友人だという日本語の分かる男性、彼も王という名前で正確には王騰君。その彼が私達を出迎えてくれました。ただ、飛行場でもそうであったが、道中も検問が何カ所かにあり、大変厳しい。時間をかけてパスポートをチェックし、写真をとってドキュメントに登録している。この土地は国境が近いため(インド、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、ロシア)毎週のようにスパイが捕まっているとのことです。運転してくれている王君も余り日本語は話さない方が良いと忠告してくれました。次第に深刻になっていく感じがしました。
ホテルへ行く前に、途中で今回の目的である大プロジェクト、ファッションショーが行われる現場を見ることになり、ワクワク感が募る。グランドキャニオンを砂漠化したような広大な景色が続く。道はしっかりしているが、やはり砂っぽい。電線は張り巡らされているが主要道路から一寸外れた感はあった。途中にはコンクリート工場のようなサイトも見られる。砂漠に砂岩山、それも、水分のあるがっちりしたのや、まさに砂山が間近に広がる。ある大きな砂の斜面を持つ茶色の山ではバイクで走り回る若者向けのスポーツ娯楽施設が出来始めているとか。こんな砂漠の奥地に、若者がそのような目的で果たしてくるのか疑問でしたが、地域を活性化する目的で、あらゆるアイディアを出しているのでしょう。今回のファッションショーもこういった地方の活性化、開発に政府は乗り出しているということでした。やっとという感じで現場に到着。
👇本番2日前のファッションショーが行われる現場の状態

本当に驚いた。大きな敷地に、特大のスチール機材で壁が建設され、それに何十台ものスピーカー、カメラなどのメカのいろいろな器具が取り付けられている。中心には大きなモニターが二台設置され、コンピューターが映っている。これから青空フロアに敷物、テーブル、椅子などが並べられる態勢である。素人目には、全体の7分ぐらいが出来ている感じであったが、明後日、2日後にはショーが開催されることになっている。メディア、観客ゲストの数は300人ぐらいというが、プロジェクトの関係者は上海から百人ぐらい?はきているらしい。モデルは殆どが外国人でロシア、白人のみ30人ぐらい、中国人も数人いるとか。デザイナーは上海に住むフランス人女性とか。聴いた話なので、実際はどうなのか。この目で確かめたい。これはまさしく世紀のプロジェクトである。リモートの1エリアの開発に凄いことを企画するものだと感嘆してしまいました。
この現場にほどなく仕掛け人の王君のグループが合流。一足早くカシュガルに着いた王君は大忙しである。一行は、みんな、上海からのスタッフ。上海大学からファッションの専門家教授や、テキスタイル専門のビジネスマン,メディア関係者など。現場の様子を確かめ、小1時間ぐらいで、この現場を後にして皆でホテルに向かいました。
このホテルは上海で4泊した全季酒店のチェーンホテル。東横インを思い出す。上海ですっかり慣れたホテルなので勝手知った我が家の感覚になった。ホテル内でのカードが全てをスムースに運ぶ。カードは毎日更新しないと作動しなくなる。上海もそうであったが、ホテル内の設備使用は全部無料。ランドリーもジムも。一つ一つお金がかかることが無い。室内の飲物も無料。ちまちましていなくて大いにリラックス出来る。ストレスレスな環境。
夜は又大宴会。中国人は白酒とビールを放さない。
6月26日(木)<巴楚(パチュ)での一日が始まる>
忙しい筈の王君がカシュガルで最大の市場に案内。10時過ぎに出発して約1時間で到着。こちらの一日の仕事の始まりは遅い。市場はまだ準備中で品物が殆ど拡げられていなかった。品物を運び込む3輪トラック、車、が忙しそうに動き回っていた。ただ、肉類、野菜類の一部は買おうと思えば買える状態にはあったが、いわゆる市場の賑い振りは見られなくて、王君も残念がっていました。市場といえば、どこよりも早く活発に人と物が動き出すイメージがあるが、今回は違っていました。驚いたのは、ハエが皆無であったことです。そういえばクウエイトに居た時もハエや蚊はいなかったことを思い出しました。インドネシアは恐ろしく多くて悩まされたものです。視察がてらにトイレに行った夫の報告だと、トイレの状況は昔のスタイルのままだそうでした。
市場が賑やかになるのは昼頃からだという。時間に余裕がなくシルクロード時代から続くマーケットは半時間ほど見ただけでホテルへ引き返すことになり、大変残念でした。
👇マーケットの一部の様子 👇長老と陽気に話す初老人
昼食と休憩を挟んで、今度は孫さんが(多少とも私とは英語で意思疎通が出来ました)地元の土産物探しにホテルに近い町中を炎天下の中を案内してくれました。炎天下をかなり歩き回りました。喧噪の界隈ではありましたが、なんだかのどかな雰囲気でもありました。珍しい駄菓子を見つけてカシュガルからの土産として少し買い込みました。この時はやっとキャッシュで買いものが出来ました。ホテルに辿り着き、休憩。
6月27日(金)<博物館と自然景観スポット 観光>
博物館はまだ新しく、モダンな建物でした。今、宿泊しているカシュガルの中の巴楚という区域がシルクロードで重要な場所であったことを知りました。中国の歴史をしっかり学ばないと猫に小判状態となってしまう。中国はそれぞれの場所に壮大な歴史があり、全国を統一する意味でも、このような博物館を創り、地域の人々を教育しているのでしょう。今回も地方政府で働く若者の集団が来ていて、リーダーが旗をかかげ、博物館のスタフがマイクを持って説明しながら巡回していました。そして、要所要素では集合写真撮影も。
カシュガルはギリシャ、インド、中国の文明が交流したいわばシルクロードの要となった地点。新疆地区が何時ごろから中国に入れられたか、どういう歴史を作って来たかが分かるように展示内容が良く整理されている。 勿論、今の共産党体制が築かれるまでの中国の政治的歴史がまず、1階に大きく展示されていた。これまでの英雄、指導者の活躍が写真と文献で、しっかり説明されている。1941年からの抗日戦争、抗日運動も展示されていた。(南京の博物館ほどではない)
三蔵法師についての説明もあったようだが多分それは今回の我々の旅の帰路に寄る西安で詳細が見られることだろう。夫の今回の旅の主目的はこの地域の重要性を確認することであった。なので、それが果たせたと言って感動しながら一つ一つの展示をしっかり見てまわった。夫は5年前にアキレス腱を断裂してから足が少々不自由であるにも関わらず、約2時間半、本当に良く歩き続けたと思います。全てのエネルギーは関心度の高さで発揮されるのだと実感しました。
引き続き孫さんの運転でこの町の最大の観光スポットへ。湖のような川が広がり、砂漠の土から育つ薄緑色の独特の木々が歯抜けのように点在する大地にコンクリートの道路が張り巡らされている。大型の20人ぐらいは乗れるオープントロッコ車で周遊する。大勢の観光客と言っても中国人ばかり。同じホテルに到着していたモデルさん達も撮影の為に来ていた。しっかり化粧してそれなりの衣服を纏い、プロとは言えこの炎天下ではさぞ厳しいだろうと思う。明治村を大きくしたようなエンターテイメントの場所でした。
👇広大な公園入口


☚休憩所の向こうでいろいろなポーズをとる赤いドレスのモデルさん
約2時間。午前と午後で5時間の外出はかなり疲れました。昨日の孫さんが車を運転してアテンドしてくれました。王君の我々への気遣いは相当なものであるとつくづく感謝の思いを持つ。今日は、朝からジェッシーのお母さんと王君の親戚の女性2人、つまり3人の女性と一緒でした。彼等も王君の大プロジェクトを見たい一心で上海から来たのでした。
かなり遅くなった昼食は、ホテルの道路を挟んで向かい側にある気軽なレストランでいただきました。好きな材料を選んで重量で値段が決まる『麻辛旦』(マラタン) という鍋料理屋で大満足でした。2016年に南京の大学キャンパスで慣れ親しんだ一番食べやすいメニューとして記憶に残っていたからです。
午後は一呼吸して、夫はプロジェクトのミーティングに参加。私は部屋で待機ということでした。洗濯が気になっていた私はランドリージョッブをすることに。上海の時と同じチェーンホテルなので、勝手も同じでした。丁度、洗濯物をドライヤーにも入れて出来上がった所に夫は帰ってきました。そのミーティングで今回のファッションのデザイナーであるフランス人のマチルドさんに出会ったとのこと。フランスの服飾学院から上海の支部に出向いて10年になるのだという。その支部の学院長が昨日から行動を共にしている人たちの1人であることがわかりました。このプロジェクトに関わった要人と私達は行動を共にすることになっていました。王君の配慮でしょう。
夕食では彼女も一緒になり、私も久しぶりでフランス語で会話するチャンスを得ました。どうやら、彼女は英語で仕事をしている様子でした。彼女に付き添うメディアの女性とは英語でやりとりをしていた。体格も良く、気さくでアメリカ人的な話しやすい方でした。
夜のファッションショーへも同行し、会場では彼女が裏方に回るどころか、客席で一緒にショーを見ていたことに驚きました。約30名のモデルさんたちが華麗な歩き方であのキャッツウオークでスピードを持って次から次と登場する。あの大きなスクリーンの裏側が更衣室となっているようで、現れてはそこへ消えてゆく。一人だけ、ランナウエイでコケタ人がいた。あの高い細いヒールでサッサとキャッツウオークをするのは至難の業であろう。
ショーが終わると花火の祭典が始まり、更に驚きです。5000発が用意されていたそうですが、結果的には4000発ぐらいで終了したとのことでした。 終わると、上海からの新聞記者がデザイナーにインタビュー。夫もインタビューを受け、ここでも彼は中国語を駆使していました。上海のメディアに紹介されたようですが記事はまだ見ていません。それにしても日本では夏の風物詩である花火の祭典がゴビ砂漠の西の端で繰り広げられるとは前代未聞の事でした。それもいろいろなデザインの花火が夜空に生き生きと輝き、日本の夜空とかわりありません。今や、世界はどこへ行っても同じことが出来るのには驚いてしまいます。ホテルに戻ったのが2時前。ブログを書いたりして就寝したのは4時過ぎていましたが、疲れている筈なのに寝つきが悪い。浅い眠りのまま7時には起き上がってしまいました。
6月28日(土)<巴楚からカシュガル市へ>
結局朝食は制限の10時ぎりぎりに済ませて、パッキングを終え、12時ロビーに集合。
今日はカシュガルのまさしく中心となるカシュガル市へ車で移動。もう一人の王さんがれんたかーを手配して我々と同行する上海からのスタフと一緒に下shがるへ連れて行ってくれた。
12時過ぎにホテルを出発。途中でガソリンを入れて、12時半に巴楚(ファッションショーが開催された所の地名)を後にした。400㎞はあるカシュガル市までノンストップで運転。平均時速130㎞で。何ともタフな青年である。
道中のハイウエイはしっかり整備され、快適でした。窓の外は右側には天山山脈が続き、左側は延々と砂漠が続く。その砂漠はクウエイトで経験した砂漠とは異なる。水分があるのか緑の灌木が点在する。あるいは緑化工作の結果なのか。電線も張り巡らされ、ハイウエイから離れた所に旧道が並行している。トラックも時々行きかっている。国土開発が続行中の印象を受けました。
カシュガル市のホテルについたのは3時間後。騰君のタフな運転振りは驚異的でした。彼は筋トレを2年前ぐらいから始めたという。今や、20㎏強のスーツケースなど、両手で軽々持ち上げる程の超マッチョ人。頼もしく、日本語もうまい。その日本語たるや、今の若者が使う語彙を習得している。マジで?ホントですか? ヤバい!などと会話が踊るように進む。高校時代から日本へ行き、南京伝媒大学、茨木の城西大学出身。漫画大好き。1年前に彼女が出来たとハッピーな気持ちを隠さない。その彼女は、私たちが30日に上海に戻った時、飛行場に迎えに来ているという。北京で起業し、彼女は彼のサポート役らしい。今回は4年先輩の王君に引っ張られて手伝わされていることを強調していました。
このホテルも全季酒店で巴楚のホテルとチェーンホテルであり、慣れているのでホットしました。日本版東横インである。先発隊(王君一行)は既に到着していて、遅い昼食を我々5人で近くのレストランで取りました。昨日、ランドリールームで測った体重に驚いて、朝食は控えめにしたせいで、かなりお腹が空いていました。そのため、麺もある食事にありついた時はありがたくつい普通に食してしまいました。食後は夫の例の行動が始動。つまり、土地の珍しい物、特に、食べる物を探して周りを歩く。ラクダの乳で作ったという駄菓子、カカオの実が入ったお菓子をゲット。
ホテルで一呼吸し、騰君(巴楚からカシュガル市まで3時間、ノンストップで運転してくれた27歳の青年)のアテンドでカシュガル古城を観光。市場が延々と広がり、お土産品が沢山溢れた所で買い物を決断。王さんの通訳とヘルプで良い買い物が出来ました。マーケットの賑いも面白く、私はコスチュームが大変気に入りました。ウイグル族のコスチュームは繊細な刺繍がなされ布もレース調の物が多く、女性も美しい。写真を沢山撮りました。
買い物は娘達へのブラウス、 お婿さんへの帽子、嫁へのアクセサリー、夫のペンダント、私のブレスレット、マグネット。新疆自治区には和田(ホートン)がある。ホートンは貴石
ラピズリーが採掘される所で有名。あの美しい青色を世に知らしめたフェルメールの絵画を思い起こす。彼はこのホートンのラピズリーから青色を取り出したと言われている。
数々のお土産品を売る女性に話しかけたり、同行してくれた王騰君
そして、夕食へ。今回カシュガル市へ来た全員が超豪華なレストランに集合。これぞ竜宮城なみのフィーストで時が経つのを忘れる程の盛り上がり。最後に夫がお礼のご挨拶。【実はこれまで殆ど中国語でやりとりをしてきていて、私は蚊帳の外状態。内容は想像するだけだが、余程の時は王騰君にこっそり内容を訊いていた。夫の中国語の挑戦意欲を邪魔してはならないという思いと、淋しい思いが交錯。尋ねれば、自分で勉強しないからだと喝を入れられるだけで、ますます落ち込んでしまう結果に。一人の世界の中で空回り。優しさを求めるのは諦めるべし。自分の不勉強に喝を入れるしかない。】
👇最後の晩餐会
それにしても今回のプロジェクトは想像を絶する舞台裏があったらしい。昨晩は関係者は朝の4時頃までかかって片付けたそう。あの大仕掛けの舞台設置を直前で仕上げ、終わったらその日の内に元の状態に戻さなければならないという。昔、公務員住宅に住んでいた頃を思い出す。引っ越しの度に原状復帰をする。絨毯、カーペットは全部剥がす。壁や障子紙もそれなりに清掃。設置した家具も取り除く。砂漠のど真ん中でその作業がなされたわけである。とは言え、スケールが違う。唖然とするだけである。設置作業は地元のスタッフの協力で行われたにしても、ノウハウは全て上海からである。更に、砂漠の中でイベントがスタートするまさにその日に、台風並みの嵐に見舞われモニター、スクリーン、器材が吹き倒されそうになってスタフが必死でそれを食い止めたという。現場に来ていなかった人達には信じられない話。謎めいた話である。しかも、上海からのスタッフ達は大変な思いをしたに違いないのに、嵐に見舞われた中の葛藤の話は聞こえてこない。騰君だけが実はもう駄目になるかと思う程の危機的状況であったことを教えてくれただけであった。誰もそのことには触れない。【大成功だった!良く出来た。凄いことだった!】などと称賛して、大乾杯で終わったことも私には信じられない思いであった。これが中国なのかもしれない。
6月29日(日)<西安へ>
私達5人(王正煕、王騰、ジェッシーと私達)は10時にロビーに集合。皆疲れた筈なのに、そんな様子も見えない。その前にしっかり朝食時にも何人かに会ったが、殆どが今日の内に上海に戻るとのこと。今回初めて会った人達なのに、すっかり馴染みになったところで別れるのはやはり淋しいもの。王正煕君を取り巻く人材は12,3人。それぞれが、専門の分野で大変なご苦労をし、任務を果たされたわけで、人は動いてこそ生きている証であることを、つくつくづく感じました。皆様、本当にお疲れさま。辛苦了!
私達5人は11時10分初の四川航空で西安へ。4時間の飛行。この飛行場では一寸トラブルが生じてしまった。例によって検閲を通るのだが、一カ所、最後の所で、夫のバッテリーが没収されるはめに。なんでも運の悪いことに本日から規則が改訂され、安全を保障する記号の入っていないバッテリーは規格外となり、機内への持ち込みができなくなったとのことでした。
更に、私のカメラもカバンから出してプラスチックの箱に他の袋と一緒に入れてスキャンされて回収する時、カメラのバッテリーが紛失。2,3分の行程で起こり得ない事態。検査官も他のプラスチックの箱など見てくれたようだが全く不思議なハプニングとなった。一寸した衝撃でバテリーが飛び出したのか。その部分の蓋が空いていた。次から次と旅行客は流れてくるので、諦めるしかない。古い方のカメラなので、果たして秋葉原あたりで同じ型のものがみつかるかどうか。インシャーアッラー!
しかしながら、後で探した結果、昨晩バッテリーを充電した後、バッテリーをそのまま充電器に乗せたまましまい込んでいたことが判明。ところが喜びもつかの間、バッテリーはあったものの、カメラ自体に衝撃があったのか、バッテリーを入れても蓋が閉まらない。カメラ自体の故障だとしたら、もう引退の時かも。ブルネイ時代にブルネイ人の友人からいただいた物でもう40年になる。小型だが良く働いてくれたカメラである。SDカードは健在であつことには感謝するしかない。スマホでの撮影はスマホのキャパシティーの関係で極力抑えてカメラを使ってきたのだが、致し方ない。最後の西安での撮影は抑え気味にスマホに頼らざるを得ないことに。
カシュガルから西安への空の旅は又格別でした。今度はタクラマカン砂漠からヒマラヤ山脈への移行が眼下にはっきり見えたことでした。壮大な自然を一望にして、息が止まるぐらいの感動でした。やはり神様の存在を信じたいですね。
西安のホテルは中心街にあるヒルトン。半時間休憩して観光
のスタート。まず、西安(あの長安である)の中心スポットとして誰もが行く鐘楼へ。鐘楼は明の時代に建設されたが今あるこの鐘は唐の時代に鋳造された景雲鐘のやや小さめのレプリカであり西北の角に設置されている。本物は碑林博物館に陳列。ここから西安の街の全貌を見渡すことが出来ます。3階建てに見えるが実際は2階建て。二階には明時代の石版や陶磁器などが展示されている。京都の町がこの長安を模して造られた歴史を思うと、京都の原点に来たのだと信じられない思いでした。 この鐘楼が町の中心であることが良く分かります。
👆 まず唐時代のコスチュームを着て観光地なら良く見かける女性達。 中国人自身、古の唐の都に思いを馳せている風景である。
👆東門に通じる路 👆景雲鐘のレプリカ 👆鐘楼の天井絵は日本のお寺を思わせる
👇夜はこれまた超一流のレストランで最後の晩餐会。原宿の雰囲気のような、中国とは思えないような高級感のある一角に凛と佇む一階建ての、しかし、複雑に部屋がならぶ、薄暗いランプで高級感が溢れる造りのレストランであった。中国産の白ワインで初めていただく中国料理。『お酒のつまみ』と命名された料理から、スッポン料理、ウナギ料理、豚の耳、カイワレとモヤシに似たサラダ、アヒルを小さくしたような鴨肉を煮て蒸して焼くという三つの調理法を駆使した鳥の料理、アワビの茶わん蒸しのようなもの、など、様々な料理が並びました。 


👆 あらゆる料理行程を経て 👆 鰻鍋 👆 スッポン料理
明日は空海ゆかりの青龍寺と玄奘法師(西遊記の三蔵法師)ゆかりのお寺を見ることに。
6月30日(月)<西安二日目は玄奘三蔵と空海ゆかりのお寺を訪ねて>
👆玄奘三蔵の凛々しく逞しい銅像は7世紀の当時の世界に引き込ませる程迫力がある 5人で二つの寺院を見学。まず、大雁塔(慈恩寺)は唐の第3代皇帝高宗が648年に母文徳皇后を供養するために建立した仏教寺院。唐代の慈恩寺は大殿、大仏殿、塔北殿、翻経院、元果院、太真院、東院、西院、浴室院などから構成され、敷地面積も現在の7倍以上あったよう。唐末の戦乱で大雁寺だけが残りました。その後、修復や拡張が繰り返されてきたのです。現在は山門、鐘楼、鼓楼、大殿、二殿、大雁塔、玄奘三蔵院などで構成されている。(地球の歩き方より)
院内に立つ7層の大雁塔には時間の関係もあり上らなかったが、この塔は玄奘がインドから持ち帰った大量のサンスクリット語経典や仏像などを保存するために652年に建立された。大恩寺遺跡公園には玄奘三蔵の立派な銅像が建つ。記念碑には彼の偉業が綴られている。7世紀初頭に生まれ、27歳で仏教経典を求めてシルクロードを通りインドへ旅立つ。17年かけて長安に戻り、経典は中国語に翻訳された。玄奘の1世紀以上後に、空海達がこの地を訪れ、密教を学ぶことになる。日本から8人ぐらいの僧侶が長安を目指して来たが途中で2人は脱落したそう。ここにたどりついた僧侶達は、空海を筆頭に体力も備わっていた人達だったのだろう。でなければ、彼らの業績は叶わなかっただろう。
この日は一日中雨で日中は視界がぼんやりしていたのが残念でした。夜にはライトアップされて観光客を楽しませているとのことでした。確かに、世紀の歴史的寺院には今や僧侶の姿は表には無い。ツーリストのみが賑わい、観光スポットとしての役割に徹している向きがありました。
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👆 ひっそり佇む青龍寺 👆空海紀念碑 👆恵果空海紀念堂の2人の像
続いて空海が留学した青龍寺へ。雨の中を歩き、空海達が2年過ごしたと言う今では小さいお寺には人影も無く、実に静寂な佇まい。敷地も狭く、雨の中を私達二人は隈なく見て歩いた。境内には日本からの参拝者がコロナ前までは多くあったのだろうが、今や、訪れる人は余り無い気配。特に四国からの参拝客は相当数あったようだ。今はお寺自体に人の気配がない。ただ、境内には空海が第七代僧正から証書のような物を渡される場面を表した石の像が
建っていて、当時の仏教の勢いと繁栄ぶりが偲ばれた。
遣唐使時代の日本からの留学生は多かったようで、境内の壁にはその歴史を伝える数々の描画と説明文が書かれている。当時入唐した多くの留学僧の1人だった空海(774~835)は、この地で恵果和尚に弟子入りし、密教の教義を学んだ。帰国後、高野山に金剛峯寺を建立。真言宗を開いた。中国文字の書道や灌漑技術も日本に伝えている。
王君とジェッシーは疲れたのか、入口でずっと待っていた。騰君は、この日はお腹を壊して朝からホテルで養生していた。あんなにマッチョな彼でも、やはり、疲れが溜まってしまったのだろう。本当に申し訳ない気持ちであった。彼等は私達の為にこうしてこの一週間、常に、思いやり、配慮を持ち、親切に、優しく接して付き合ってきてくれた。本当に頭が下がる思いだった。
そしてその日の夕方我々5人はホテルを発ち、中国南方航空で西安空港から上海へ戻った。その機内で特記すべきネタを発見。デジタル社会の身近にあるスマホの最新型を初めて目撃したのだ。三つ折りのスマホである。開けばタブレットの大きさであり、機能はパソコンと同じに見える。一寸声をかけてその機能性を訊いてみたかったが、タイミングを逸してしまった。後になって王君達に尋ねたら、勿論彼らはその存在を知っていた。「でも、超高いよ。」一人が20万円と言ったら、別の人が「いや、40万はする。」と。どうやら韓国製らしい。
騰君の彼女は鶴首して待っていた。私達もホットする。ブンさん(雨冠に文と書く)も少し日本語を勉強している様子。細身の背の高い可愛いい女性。その後、彼女も私達のホテルへのチェックインや翌日のチェックアウト、飛行場までと親切に一緒にケアしてくれました。
上海のインターコンティネントへ。ホテルの前はブルーのネオンが照らされ、豪華なホテルを一層際際立たせて美しく映えていた。王君のオフィスに置かせていただいた2つのスーツケースはすでに手配済みでホテルで待っていた。 今晩はいよいよ最後のパッキングである。
最後の最後まで夫の願望は止まらない。最後に上海の刀削麺が食べたいという。騰君がネットでいとも簡単に評判の美味しい店を探し当て、私達を連れて行ってくれた。案の定、大繁盛ぶり。空席を待ってお目当ての麺を注文しようとしたら、売り切れだという。仕方なくそれに似た麺を注文したが、なかなか美味しく、夫も満足した様でやれやれ。本当にお疲れ様です。
ここでも一杯キャパを超える品数を注文。私に言わせれば、勿体ない限りである。この文化の違いを何とか共通認識出来るところに持 っていけないものか。騰君は頑として中国のおもてなしの文化を守ろうとして妥協しない。文化は変わるのには時間がかかるのです。
👆最後になったホテルロビーの椅子に座ってここまで無事に通過したことに安堵し感謝する私です。
7月1日(火)<中国横断の旅を終えて>
さて、いよいよ上海を発つ時間となりました。私にとっては最後かも知れない上海。だが正直、私の中では世界を歩いてどこも住めば都なのです。異文化の環境であっても、自然環境は変わりません。山河があり、草木が茂り、花が咲き、果物や野菜が育ちます。人が住む場所は誰もが住めるはずです。もちろん、その中には異なる形、異なる言葉、異なる文化が存在します。だからこそ、世界は一つでありながら異なり、異なっていても一つなのです。地球は人類の共通財産と言えるでしょう。
そう思うと、地球にいることが愛おしくなります。地球にいつお別れを告げることになるのか、まだまだ先と思いたい。そんな思いを抱きながら、12日間の中国の旅を終えることが出来ました。
今回、私も中国行きを決断したきっかけはカシュガルの郊外の砂漠の中での世紀の大ファッションショーに招待されたことでした。それならばシルクロードの中国の西の果てのカシュガルを訪問したい。これは予てからの夫の夢でした。東から西へと中国大陸横断をする特別な旅へと胸が膨らみました。新婚旅行ではなく旧婚旅行という言い方が出来るのならそれで行くのも特別な思い出となろう。
この機会を与えてくれた夫に、さらには夫との繋がりを大切にしてくれている中国の人たちに感謝しながら、このリポートを終わりにしたいと思います
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2025年7月30日 日光にて 慶子